草野マサムネ氏の書く詞は素晴らしいが、鳥は生理的にNG。
夕刻になると、家から少し離れた通りにけたたましいほどムクドリの鳴き声が響き渡る。その辺の電線を見上げればもう、鳥、鳥、鳥。空を見れば無数の群れが飛び交っている。鳥肌が立つくらいおぞましい。鳥だけに…。
昔から鳥がすごく苦手である。いや、嫌いである。スズメくらいならいいけど、鳩とかカラスは、正直絶滅していただきたいくらい嫌い。江ノ島に行くとトンビがいて食べ物狙ってるじゃないですか。こっち向かってきたら冗談じゃなく心臓止まると思う。人間からかけ離れたフォルムがエグい。嘴が怖い。目が怖い。飛べるところが意味不明。羽が落ちてるとぞっとする。
鳥がとまっている電線の下を歩くのは罰ゲームに近い。いつ爆弾落とされるか分からないのに…書いてるだけでも怖い。鳩が対面から歩いてきて、道の譲り合いになったときの絶望感も酷い。突然こっちに向かって飛んできたらどうしよう!?ってパニックになる。そもそも飛べるんだから歩かないでほしい。車に轢かれて死んでいる鳥は一体なんなのか…。
スピッツの楽曲には、『ヒバリのこころ』とか、『8823(隼)』とか、『トンビ飛べなかった』とか、『つぐみ』とか、鳥にまつわる曲が多い。『空も飛べるはず』や『鳥になって』なんかにも、飛ぶことへの憧れが散見される。
スピッツ大好きだし、『つぐみ』の歌詞もすごく可愛らしいし、スピッツの世界観にはいつも惹き付けられ感動しているけど、鳥や、飛ぶことへの肯定は出来かねる。飛びたくないし、出来れば誰にも飛んでほしくない。
草野さんが言わんとすることは分かる。現実への嫌悪感から生まれてくる、“君”と“僕”の世界はここではないと思いたいという願望。ここは“僕たち”を拒む、“ゴミできらめく世界”なのである。飛びたいというのはそこから逃げたい、というネガティブさをどうにか前向きに表現している、んだと個人的には思っている。
しかしそれも草野さんが比較的若い頃の歌詞に多用された表現で、年を重ねるにつれ、「歩く」、「走る」のような、地に足のついた表現が増えてきている。
“ルキンフォーどこまでもつづくデコボコの道をずっと歩いていこう”
とか、
“鳥を追いかけて裸足で駆け出す”
などは、結構顕著な変化だと言われている。飛ぶこと、つまり現実から逃げることを諦めた、というか、現実で生きていくことを受け入れたという印象を受ける。理想とは違っても、自分の足で歩くことの良さを認めているような。もちろん先述の“鳥を追いかけて”のように、飛ぶことへの憧れはなくなっていないけど、寧ろそこがなくならないことでスピッツのエバーグリーン感は保たれてるような気もするけど。
私はスピッツは好きだけど、鳥にはならないしなりたくもない。飛ぶことを夢見る草野さんのことは好きだけど、私はそれを、ゴミできらめく世界から見上げているだけでいい。
とりあえず我が街には、ムクドリ対策を早急に進めていただきたい。怖くて電線の下歩けません。ちなみにペンギンは飛ばないからギリギリ可ですが、クジャクやニワトリは目つき怖いし羽根広げたら少し飛ぶから無理です。
2018.09.08記
2019.01.09編集
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